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十方の諸仏と信心のひと [親鸞の手紙を読む(その24)]

(10)十方の諸仏と信心のひと

 この段はさらに三つの段落に分けて読むことができます。第一段落は「かげのかたちにそえるがごとくしてはなれたまはず、とあかせり」まで、第二段落は「かならず真実の報土に往生するなりとしるべし」まで、そして第三段落です。
 第一段落では、本願の証人としての「十方の諸仏」について述べられます。釈迦はまさに本願の証人ですが(『無量寿経』はその証言集です)、釈迦一人の証言では「五濁悪世のわれら」は信じないかもしれないから、釈迦・弥陀のみならず、十方の無数の諸仏が同じように証人としてわれらに「かげのかたちにそえるがごとくして」本願が真実であることを証言してくれると言われます。
 そして第二段落では、そのように釈迦・弥陀・諸仏に寄り添われる「信心のひと」についてさまざまに述べられます。釈迦如来の「したしきとも(親友)」であり、「真の仏弟子」であり、「正念に住する人」であり、「金剛心をえたる人」であり、「上上人とも、好人」などともよばれる人であり、「正定聚のくらゐにさだまれる」人であり、「弥勒仏とひとしき人」であり、そして「かならず真実の報土に往生する」人であると。
 第三段落では、再び「十方の諸仏」に戻り、信心は釈迦・弥陀の力だけでなく「十方諸仏の御方便より」たまわったのだから、「諸仏の御おしえをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし」と述べます。さらには「念仏する人をにくみそしる人おも、にくみそしることあるべからず」と釘を刺しています。どうやらこの手紙のほんとうの狙いはこのあたりにありそうです。
 ともあれ、まずは第一段落から見ていきましょう。十方の諸仏が「かげのかたちにそえるがごとく」寄り添ってくださるということについてです。弥陀は報身仏(因位の願行が報われた仏)であり、釈迦は応身仏(衆生を救うために娑婆世界に出現した仏)とされますが、その他にも十方の無数の世界に無数の仏がおわします。いや、仏は本来、この仏、あの仏と数えられるようなものではなく、大いなる「ほとけのいのち」がさまざまな姿をとると言うべきでしょう。

タグ:親鸞を読む
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