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親しき友 [親鸞の手紙を読む(その25)]

(11)親しき友

 われらはみな大いなる「ほとけのいのち」から生まれてきて、いま「わたしのいのち」として生きていますが、そのうちまた大いなる「ほとけのいのち」に帰っていくのではないでしょうか。その大いなる「ほとけのいのち」を、あるときは弥陀仏とよび、あるときは釈迦仏とよび、そしてまたあるときは十方の諸仏とよぶだけのことで、その大いなる「ほとけのいのち」が「影の形に添へるがごとく」にわれらに寄り添ってくださっているのです。寄り添ってくださるだけではありません、「南無阿弥陀仏(帰っておいで)」と呼びかけてくださるのです。
 だからこそ、第一段落から第二段落へのつなぎとして「しかれば」と言われ、「この信心の人を、釈迦如来は、わが親しき友なり、とよろこびまします」とつづきます。仏と信心のひとは「親しき友」であると言うのです。「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」から生まれてきて、またいずれ「ほとけのいのち」に帰っていくのですから、見かけはどれほど違おうと、「ほとけのいのち」と「わたしのいのち」は「親しき友」だということです。おたまじゃくしは蛙から生まれてきて、またいずれ蛙になっていくのですから、蛙とおたまじゃくしは「親しき友」であるように。
 また信心の人は「弥勒仏とひとしき人」であるとも言われます。これは次に読む手紙(『末燈鈔』第3通)の主題となることですが、こんなふうに繰り返し話題とされているのは、この点が当時、関東の弟子たちのなかで大きな関心事であったということでしょう。たしかに、信心の人は仏と「親しき友」であるだけでなく、もう仏と「ひとしき人」であるというのは、きわめて大胆なもの言いであり、その分つよく印象に残ったに違いありません。しかし親鸞としましては、いつの日かかならず蛙になるおたまじゃくしは、もう蛙にひとしいと言っていいように、信心の人はかならず仏になるのですから、すでに仏にひとしいのです。

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