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そしることなし [親鸞の手紙を読む(その26)]

(12)そしることなし

 さて第三段落です。仏と「親しき友」であり、仏と「ひとしき人」であると気づくのが信心ですが、その信心は「釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたる」ものです。賜りたる信心という浄土真宗のキャッチフレーズが意味するのは、気づきは「こちらから」ゲットできるのではなく「むこうから」やってくるものだということに他なりません。われらはみずから目覚めることはできず、目覚めさせてもらうしかないということです。
 そこから親鸞は「しかれば諸仏の御おしえをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし」と言います。先にちょっと言いましたように、親鸞がこの手紙を書いた第一の狙いはこれを言うことにあったのではないでしょうか。善鸞が引き起こした混乱は、ついには「鎌倉にての御うたへ(訴訟ざた)」(『親鸞聖人御消息集』第7通)にまで発展しますが、それが「諸仏の御おしえをそしること」、「余の善根を行ずる人をそしること」と関係するのではないかと推測できるのです。
 前に自力と他力が対比されましたが、自力とはさまざまな功徳を修めることにより往生をゲットしようとする第19願の立場で、他力とは本願にゲットされることが取りも直さず往生することであるとする第18願の立場でした。いま「諸仏の御おしえをそしる」、「余の善根を行ずる人をそしる」と言われるのは、第18願の立場から第19願の立場の人をそしることですが、親鸞が言うのは、本願にゲットされて慶ぶ人が、自力の立場の人をそしることなどどうしてあるだろうかということです。
 自力の立場の人が他力の立場の人をそしることは十分ありえます。現に法然も親鸞もそのような目にあってきました。しかしそんな場合も「この念仏する人をにくみそしる人おも、にくみそしることあるべからず」と言います。むしろ「あわれみをなし、かなしむこゝろをもつべし」と述べるのです。誰かからそしられたら、それに対抗してそしり返すのが普通でしょう。相手に憎まれたら、その人をまた憎らしく思うのが人情です。しかしそんな相手を「あわれみをなし、かなしむこゝろをもつべし」と言う。どうしてそんなことができるのか、ここには考えなければならない大事なことがあります。

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