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正定聚と等正覚 [親鸞の手紙を読む(その31)]

(2)正定聚と等正覚

 第2通にもこの話題は出てきていました。「この信心の人を、釈迦如来は、わがしたしきともなり、とよろこびまします」とあり、さらに「この人は正定聚のくらゐにさだまれるなり、としるべし。しかれば弥勒仏とひとしき人とのたまへり」とあります。そこでは等正覚ということばは出ていませんでしたが、この手紙で正定聚と同じ意味であることを『無量寿経』(康僧鎧訳、魏訳)とその異訳である『如来会』(菩提流支訳、唐訳)を対照することにより明らかにしています。
 煩わしいようですが、念のため経文を確認しておきますと、『無量寿経』にはその第11願に「たとひわれ仏をえたらんに、くにのうちの人天、定聚に住し、かならず滅度にいたらずば正覚をとらじ」とあるのに対して、『如来会』の該当箇所には「もしわれ成仏せんに、くにのうちの有情、もし決定して等正覚をなり、大涅槃を証せずば菩提をとらじ」とあります。これにより(正)定聚と等正覚は同じ意味でつかわれていることが明らかです。正定聚は「仏となることが正しく定まった聚(ともがら)」ということで、等正覚とは「仏の正覚に等しい境地」ということです。
 さて問題は正定聚となり等正覚となるのはいつのことかということです。親鸞は手紙の冒頭で「信心をえたるひとは、かならず正定聚のくらゐに住するがゆへに等正覚のくらゐとまふすなり」と述べていますが、この「かならず」をどう読むか。「このさきかならず」なのか、それとも「信心のときにかならず」なのかということです。『無量寿経』の文では「かならず」は「滅度にいたる」にかかっており、「いたる」というのですから「このさきかならず」の意味だろうと理解できますが、「かならず正定聚のくらゐに住す」はどちらとも決めかねます。
 そこで手がかりになるのが「摂取不捨の利益」という文言です。親鸞は「摂取不捨の利益にさだまるものを正定聚となづけ」られるとしますが、さて「摂取不捨の利益にさだまる」のはいつか。

タグ:親鸞を読む
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