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親鸞の手紙を読む(その33) ブログトップ

第2段本文 [親鸞の手紙を読む(その33)]

(4)第2段本文

 第2段に進みます。

 さて『大経』には「次如弥勒(しにょみろく)」とは申すなり。弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。しかれば弥勒におなじ位なれば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。弥勒はすでに無上覚にその心定まりてあるべきにならせたまふによりて、三会(さんね)のあかつきと申すなり。浄土真実のひとも、このこころをこころうべきなり。光明寺の和尚(かしょう)の『般舟讃(はんじゅさん)』には、「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居(こ)す」と釈したまへり。「居す」といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり。これは弥勒とおなじといふことを申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心のひとは如来とひとしと申すこころなり。

 (現代語訳) さて、『大無量寿経』には「(不退の菩薩は)弥勒につづくもの」と言われています。弥勒はすでに仏に近い存在ですから、諸宗で弥勒仏と呼びならわしています。このように正定聚の人は弥勒とおなじ位ですから、如来とひとしいとも言うのです。浄土の真実の信心を得た人は、その身こそ浅ましく不浄で悪をなす身ですが、その心は如来とひとしいのですから、如来とひとしいと言うこともあるのだとご承知になってください。弥勒はすでに無上の悟りに至ることが定まっているのですから、「仏となり竜華樹(りゅうげじゅ)のもとで三回の説法をするあかつきには」と言うのです。浄土の真実の信心を得た人も同じだと心得なければなりません。光明寺の和尚・善導大師は『般舟讃』の中で、「信心を得た人は、その心はすでにつねに浄土に居す」と教えてくださっています。「居す」というのは、信心の人の心は浄土につねにいるということです。これは弥勒と同じということを言っているのです。これは等正覚を弥勒とおなじと言うことによって、信心の人は如来とひとしいと言っているのです。

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