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目覚め [親鸞の手紙を読む(その35)]

(6)目覚め

 なぜ親鸞は「この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、こゝろはすでに如来とひとし」などと言えるのか。どんな根拠があって、そのように途方もないことが言えるのか。親鸞に目覚めがあったからとしか言えません。親鸞に本願の不思議な声が聞こえたからです、「おまえは、おまえのままでもう仏とひとしいのだ」と。ひとたびその声にゲットされてしまったからには、「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず」です。だってもう本願の声を聞いてしまったのですから。
 もし親鸞に「なぜあなたはそんな途方もないことが言えるのですか」と尋ねたら、おそらく「『大経』にそう書いてあるから」と答えることでしょう。現にこの手紙でも「『大経』には次如弥勒とはまふすなり」と言っています。でもそのことばを、『大経』は真実の書であるから、そこに書かれていることは真実である、と受け取ることはできません。それではただのトートロジーであるか、あるいはとんでもないドグマティズムです。親鸞はこう言っているに違いありません、「わたしには『大経』から本願の不思議な声がきこえてきたのです」と。
 そしてぼく自身はどうか。どうして「この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、こゝろはすでに如来とひとし」などという途方もないことを信じられるのか。ここでも「ぼくは親鸞を信じていますから」と言うのでは、親鸞ドグマティズムと言わなければなりません。ぼくはたしかに親鸞の言うことを信じていますが、それはぼく自身に「おまえのようなものもそのままでもう仏とひとしいのだ」という本願の声が聞こえるからです。親鸞が聞いた声とおそらくは同じ声が聞こえてくるからです。
 あるとき「あなたはよく不思議な声が聞こえると言われますが、それが幻聴ではないと言い切れますか」と言われたことがあります。そのときはドキッとしてうまく答えられませんでしたが、いまなら言えます、「たとえそれがぼくにしか聞こえない声という意味の幻聴だとしても、『さらに後悔すべからず』です。なぜなら、ぼくはその声に救われたのですから」と。

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