SSブログ
親鸞の手紙を読む(その36) ブログトップ

すでにつねに浄土に居す [親鸞の手紙を読む(その36)]

(7)すでにつねに浄土に居す

 親鸞は「弥勒とおなじ」、「如来とひとし」と述べた後、善導のことばを引きます、「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」と。『般舟讃』の末尾におかれたことばをそのまま上げますと、「凡夫の生死、貪していとはずばあるべからず。弥陀の浄土、かろしめてねがはずばあるべからず。いとへばすなはち娑婆ながくへだつ。ねがへばすなはち浄土につねに居す」とあります。その最後の文を親鸞は「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」と言い換えているのです。「ねがへば」を「信心のひとは」とし、「その心」をつけ加えて、さらに「すなはち」を「すでに」と言いかえています。
 ところで、上に引いた『般舟讃』の文の前半部分をある本にはこう訳してあります、「凡夫の迷いの世界に執着することなく、これを厭うべきである。阿弥陀仏の浄土を軽んじることなく、これを願い求めるべきである」と。それでいいように思います。ぼくもそのように読んできました。しかし曽我量深氏はもうひとつ奥底にあるものを汲みとり、こう読むのです、「凡夫というものは生死に執着して、それを厭うことはないものである。また弥陀の浄土を軽んじて、それを願い求めることはないものだ」と。脱帽です。そう読んではじめて、次の「いとへばすなはち娑婆ながくへだつ。ねがへばすなはち浄土につねに居す」が生きてきます。
 凡夫は娑婆に執着し、浄土を願うことがないが、願えば「すなはち」つねに浄土に居ることができるというのです。しかしこれはまた何とも過激な発言ではないでしょうか。概して親鸞の発言は過激で、誤解のおそれがでてくるのを警戒しなければならないものですが、ここでは善導の過激な発言がまちがって受けとられないように親鸞があえてことばをつけ加えています、「その心」すでにつねに浄土に居す、と。その身は依然として娑婆にいることを忘れてはいけませんということです。しかし親鸞は「すなはち」を「すでに」とすることで、いちばん大事なポイントをしっかり押さえています。浄土を願えば(浄土に気づけば、ということです)、そのときにはすでに浄土に居るのです、と。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その36) ブログトップ