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浄土はいづこに [親鸞の手紙を読む(その37)]

(8)浄土はいづこに

 しかし身はまだ娑婆にいても、その心はもうすでに浄土にいるというのはどういうことでしょう。
 いちばん手っ取り早いのは「浄土は心の中」とすることです。現実には娑婆にいるのだけれども、心の中には浄土があると。これは何も難しいことはありません。ぼくらの心は現実とは異なること、その真反対のことも思い描くことができます。起きているときに現実にはないことを空想することがありますし、もっと分かりやすいのが寝ているときに夢を見ることです。身はベッドの上にありながら、夢の中ではさまざまなところに出かけて、思いもかけないような経験をします。これらはみな「心の中」と言っていいでしょう。
 さて「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」とは、身は娑婆世界にいながら、心の中に浄土を思い描いているということでしょうか。睡眠時に夢を見るようなもの、あるいは覚醒時に白昼夢を見るようなものでしょうか。どうもそれとは違うようです。夢や白昼夢の場合は、身と心がはっきり区別され、身は現実の中にあり、心は夢の中にあります。でも「その心すでにつねに浄土に居す」という場合は、そのように身と心をはっきり区別することができません。一方では身も心もどっぷり娑婆世界につかりながら、他方では身も心も浄土にあるということです。
 しかし、もし浄土が娑婆とは別のどこかにあるとしますと、一方では身も心も娑婆にありながら、同時に身も心も浄土に居るというのは不可解です。としますと、浄土は「心の中」にあるわけではないし、かといって「娑婆とは別のどこか」にあるわけでもないということになります。いやはや困ったとなりますが、この困難のもとは「浄土」ということばから、これを空間的にイメージしてしまうところにあるようです。「浄らかな国土」と言われますと、それを空間の中のどこかに位置させようとして、それは「心の中」にあるのか、それとも「娑婆とは別のどこか」なのか、と思い巡らしてしまうのです。

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