SSブログ
親鸞の手紙を読む(その38) ブログトップ

娑婆は娑婆のままで浄土 [親鸞の手紙を読む(その38)]

(9)娑婆は娑婆のままで浄土

 ここで愛について考えてみましょう。あるときふと誰かの「愛の中にいる」と気づくことがあります。
 そのとき愛は「心の中」にあるのでしょうか。そうではなく、むしろ心が「愛の中」にあります。つまり、ただ心の中に愛を思い描いているのではなく、心が(そして身も)「愛の中」にすっぽり包みこまれています。そのことを善導=親鸞流に「すでにつねに愛に居す」と言うことができるでしょう。さてしかしそのとき同時に誰か別の人の「憎しみの中」にいると感じることがあります。これまた、ただ「心の中」に憎しみを思い描いているのではありません、むしろ身も心も「憎しみの中」に閉じ込められています。そうしますと憎しみの中にありながら、「その心すでにつねに愛に居す」と言えるでしょう。それと同じように、紛れもなく娑婆世界にありながら、「その心すでにつねに浄土に居す」と言えるのではないでしょうか。
 それだけではありません。「愛の中」と「憎しみの中」は同時であるように、「娑婆の中」と「浄土の中」は実はひとつの気づきで、切り離すことができません。
 娑婆と浄土は対立します。娑婆であるということは浄土でないということですし、浄土であるということは娑婆でないということです。ところが「娑婆にいる」という気づきは「浄土にいる」という気づきとひとつです。「娑婆にいる」と気づいたとき、その裏面ですでに「浄土にいる」と気づいています。浄土の気づきがないまま、ただ娑婆にだけ気づくことがありえないのは、光の気づきがないのに、闇に気づくことがありえないのと同じです。何度も言うようで恐縮ですが、生まれてこのかた光のない深海で生きてきた魚は、自分が闇の世界にいることに気づいていません。そこは光の世界でないのはもちろんですが、闇の世界でもありません。
 身は娑婆にいるが、心はすでにつねに浄土に居す、と言うよりも、身は娑婆にいるからこそ、心はすでに浄土に居す、と言うべきです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その38) ブログトップ