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第5通第1段本文 [親鸞の手紙を読む(その42)]

             第4回 自然法爾

(1)第5通第1段本文

 第5通です。2段に分け、その第1段。

 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾は、この御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるということばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、迎へんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
 
 (現代語訳) 「自然」の「自」といいますのは「おのずから」ということです。行者のはからいではないということです。「然」というのは「しからしむ」ということばです。「しからしむ」といいますのは、行者のはからいではなく如来の誓いですから、また「法爾」ともいうのです。「法爾」といいますのは如来の誓いによるということですから、「しからしむ」ことを「法爾」というのです。「法爾」とは如来の誓いのことですから、およそ行者のはからいではなく、この法の徳によって「しからしむ」ということです。人がそもそも何もはからわないということです。ですから「はからいのないのが正しい」と知らなければならないと言われるのです。自然といいますのは元々「しからしむ」ということばです。弥陀仏のお誓いは、言うまでもなく行者のはからいではなく、南無阿弥陀仏とおたのみもうせば、迎えとろうと弥陀仏自身がはからってくださっているのですから、行者が善かろうとも悪かろうとも思わないのを「自然」というのだと法然聖人からお聞きしております。

 これには「自然法爾(じねんほうに)のこと」という表題がつけられています。そして末尾に正嘉2年(1258年)12月14日の日付けがあり、愚禿親鸞八十六歳と記されています。

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