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「如来のちかひ」と「行者のはからひ」 [親鸞の手紙を読む(その43)]

(2)「如来のちかひ」と「行者のはからひ」

 これは手紙文ではなく、親鸞の法話の聞き書きのようです。といいますのは、『末燈鈔』とは別に、高田派専修寺に顕智上人書写本というのが伝えられており、その奥書に「正嘉二歳戊午(つちのえうま)十二月日、善法坊僧都御坊、三条とみのこうち(富小路)の御坊にて、聖人にあひまゐらせての聞き書き、そのとき顕智これをかくなり」とあるからです。顕智といいますのは、真仏とともに高田門徒を率いた人ですが、その顕智が京の親鸞を訪ねたときの聞き書きを従覚が『末燈鈔』に収めたものと思われます。繰り返しが多いように感じられるは、もとが親鸞の法話だからです。
 さて自然とは「おのづからしからしめられる」であり、法爾とは「あるがままに」ということで、ともに他力ということです。
 それは「如来のちかひ」によるということで、「行者のはからひ」と対比されます。「如来のちかひ」により「おのづからしからしめられる」こと、あるいは「如来のちかひ」の「あるがままに」が他力で、反対に「行者のよからんとも、あしからんとも」「はからう」のが自力です。「如来のちかひ」といいますのは、「(行者に)南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたる」ことです。はからいはすべて如来からというのが他力で、逆に、行者がなにくれとはからうのが自力です。
 この対比は明確で、そこに疑問の余地はありませんが、問題は「如来のちかひ」すなわち他力と、「行者のはからひ」すなわち自力の関係です。浄土真宗は「本願他力の教え」であり、「自力無功の教え」であると言われ、それはまったくその通りだと思うものの、その教えにしたがって生きるというのはどういうことだろう。行者のはからいがないというのは、こちらからは何も働きかけないで、むこうからの働きかけをひたすら待つということだろうか、などさまざまな疑問が押し寄せてきます。

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