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自力と他力 [親鸞の手紙を読む(その44)]

(3)自力と他力

 まず自力と他力ということばには注意が必要です。日常語としての自力・他力と仏教語としての自力・他力とではかなりの差があるからです。それを一緒くたにしてしまうところからさまざまな誤解が生まれてくることになります。「他力本願ではダメだ」などという言い回しはその最たるもので、これは浄土教でいう他力と日常語の他力を同じ意味でつかっているのです。日常語としての自力は「自分の力でやること」、他力は「他人の力を借りること」で、何ごとも自力でやることは良しとされ、他力を借りることは劣っているとみなされます。しかし仏教語としての自力・他力にはそんなニュアンスはありません。
 もともとの仏教のことばとしては「自利と利他」であったものを、曇鸞が「自力と他力」という俗のことばに言いかえたということを曽我量深氏から教えられました。仏教で「自力によって生きる」というときは、ただ単に「自分の力で」ということだけではなく、「己の利益をはかるために」ということが含まれているということです。そして仏教で「他力によって生かされる」というのは、ただ単に「他の力を借りて」ということではなく、「他の利益をはかる力によって」という意味が含まれています。
 さて仏教の自力と他力の関係ですが、こちらに自力の世界があり、あちらに他力の世界があるのではありません。
 まずぼくらは骨の髄まで自力の世界に生きています。そんなことはないだろう、ぼくらは他の多くのひとたちのお蔭をこうむらなければ生きていけない、と言われるかもしれません。確かにお互い他の利益のために力を貸しあい、支えあって生きています。ロビンソン・クルーソーでもない限り、自分ひとりで生きていくのは難しい。でも、他人のために力を貸すのも所詮「己の利益をはかるため」です。「情けはひとのためならず」ということばは、しばしば誤って理解されますが、ひとに情けをかけるのは、それが結局は自分のためになるからだ、ということです。

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