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自力の気づきと他力の気づきはひとつ [親鸞の手紙を読む(その45)]

(4)自力の気づきと他力の気づきはひとつ

 こんなふうにぼくらは隅から隅まで自力の世界に生きています。他に手を差しのべるのも、結局は己のためですし、また、手を差しのべられる側も、それをみずからつかみ取らなければ何にもならず、つまるところ「生きんかな」とする意志がすべてを支えているのです。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」とは「われ生きんかなと思う、ゆえにわれあり」ということです。ところが、そのことに気づくとき、同時に、「生かしめんかな」とする他力がまぎれもなく働いていて、それによって生かされていることに気づきます。
 自力と他力は明確に対立することばです(日常語としての自力・他力では、一部分は自力、一部分は他力というように混ざり合っているのが普通ですが)。ところが自力の気づきと他力の気づきはひとつです。すべてはつまるところ自力で「生きんかな」とすることであると気づくとき、その裏側で同時に「生かしめんかな」と願う他力がはたらいていることに気づいています。それは、娑婆と浄土は真っ向から対立しながら、娑婆の気づきと浄土の気づきがひとつであるのと同じことです(第3回、9)。
 さて「如来のちかひ」(これが「生かしめんかな」という願いです)に気づいたとき、「行者のはからひ」(「生きんかな」として、あれこれはからうこと)はどうなるのでしょう。もう本願他力に気づいたのだから自力無功となり、ただひたすら本願他力に取りすがって生きていくことになるのでしょうか。これが先にあげた疑問ですが(2)、「如来のちかひ」に気づいたからといって、「行者のはからひ」がなくなるわけではありません。むしろ日々の「行者のはからひ」の正体が「生きんかな」とする我執であることが目の前に突き付けられるようになるのです。光に気づくことで、はじめて闇が闇として迫ってくるようになるのです。
 そもそも本願他力はそれに取りすがって生きるものではなく、あるときふとそれに気づくのであり、そのときにはもうすでにその中にいるのです。それであれこれはからうこころがなくなるわけではなく、すでに「如来のちかひ」の中にあるという安心のもとで、「これはよし、あれはわろし」とはからいながら、次々に降りかかってくる火の粉を慌てふためくことなく払うことができるようになるのです。

タグ:親鸞を読む
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