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第2段本文 [親鸞の手紙を読む(その47)]

(6)第2段本文

 第2段に進みます。

 ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやう(様)をしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

 (現代語訳) 弥陀仏は衆生を無上仏にならせようと誓われたのです。無上仏といいますのは、形もありません。形がありませんから自然というのです。形があるときには、無上涅槃とは言いません。そもそも、形もないことを知らせようとして弥陀仏と呼ぶのだと聞きならってまいりました。弥陀仏とは自然(他力)ということを知らせるための手立てです。この道理を心得られましたら、この自然ということについていつまでもあれこれ言うべきではありません。自然についていつまでもあれこれ言いますと、「はからいのないことが正しい」と言いながら、やはりはからいがあることになってしまいます。これは仏智の不思議というしかありません。

 第1段で「如来のちかひ」と「行者のはからひ」について説かれてきました。「如来のちかひ」においては「行者のはからひ」は一切入り込む余地がないということ、「義なきを義とす」ということです。そしてこの第2段で、「如来のちかひ」とは一切衆生を「無上仏にならしめん」ということだが、そもそも無上仏とは何か、について大胆なことが言われます。

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