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弥陀仏は自然のやうをしらせん料 [親鸞の手紙を読む(その48)]

(7)弥陀仏は自然のやうをしらせん料

 親鸞はここで他のところでは言わないようなことをズバリと言っています、「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」と。
 自然とは、こちらからはからうことなく、むこうからはからわれること、すなわち他力ということですが、無上仏つまり弥陀仏とはこの他力ということを語るための手立てにすぎないというのです。いま他力とは「むこうからはからわれる」ことだと言いましたが、ぼくらの頭は「むこうから」と言われると、途端に「むこうってどこ?」と疑問に思うようにできています。その問いに答えるための方便として弥陀仏が立てられているのであって、どこかに弥陀仏という存在がいるわけではないということです。親鸞が「しらせん料」と言っているのはそういうことです。
 突然ですが、ここでニュートンの万有引力を考えてみましょう。ぼくらが宇宙にさまよい出ることなく地上に立っていられるのは、地球に引きつけられているからと教えてもらったときの感動はいまも鮮やかです。地球が丸いと知ったとき、反対側にいる人がどうして地球から落ちてしまわないのか不思議でした。地球儀をイメージして、自分はその上の方にいるからいいものの、その下の方にいる人は落っこちてしまうではないかと思っていたのです。しかし心配無用、地球上のどこにいても、地球から引っ張られているから落ちることはないと納得したのです。
 ぼくらはいつでもどこでも地球に引きつけられているように、いつでもどこでも弥陀の本願力に牽かれています。
 『無量寿経』に「其国不逆違、自然之所牽(ごこくふぎゃくい、じねんししょけん、その国逆違せず、自然の牽くところなり)」という印象的なことばがあり、ぼくらは思わず知らずに弥陀の本願他力に牽かれていると教えてくれます。「むこうからはからわれている」というのは、この不思議な力に牽かれているということです。引力に引っ張られているから地球から落ちることがないように、弥陀の本願力に牽かれていることで人生から落っこちないで生きていけるのです。

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