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願もて力を成ず、力もて願につく [親鸞の手紙を読む(その49)]

(8)願もて力を成ず、力もて願につく

 万有引力も弥陀の本願力も力であり、力に実体はありません。引力のはたらきを「地球に引かれる」と表現してきましたが、地球に引く力があるわけではなく、地球と自分との間に引っ張り合う力がはたらいているだけです。同じように、弥陀の本願力と言いますが、弥陀という仏にわれらを牽く力があるということではなく、われらを牽くはたらきをしている力を弥陀の本願力と呼んでいるだけです。宇宙空間のあらゆるところに万有引力という名の力がはたらいているように、宇宙空間の隅々まで弥陀の本願力という名の不思議な力が満ち満ちているのです。
 『浄土論』に親鸞のこころにかなった一文、「仏の本願力をみそなはすに、まうあふてむなしくすぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」があります。本願力という不思議な力に気づくと(「遇う」とは気づくということです)、もうそれだけで生きることのあらゆる苦しみから救われ、功徳の大宝海に居ることができるというのです。これを天親は「不虚作住持功徳(ふこさじゅうじくどく)」とよぶのですが、曇鸞はこう解説してくれます。「いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とによる。願もて力を成(じょう)ず、力もて願につく。願、徒然(とぜん)ならず、力、虚設(こせつ)ならず。力、願あひかなふて畢竟(ひっきょう)してたがはず」(『浄土論註』)と。
 願いが力となり、力が願いをかなえる。このように願いと力があいよってわれらを功徳の大宝海へと牽いていってくれるというのです。
 宇宙には「大いなる願い」が満ち満ちています、「みんなが平和で幸せに生きられますように」と。しかしその願いがただの願いにとどまる限りは無力です。それがひとり一人の心に届いてはじめて力となります。ぼくらはみんな「平和で幸せに生きられますように」と願われているのですが、そのことがぼくらに届いてはじめて力となります。それだけで救われるのです。願われているということに気づくこと、これが信ですが、そのように願は信となってはじめて成就します。「信は願より生ずれば、念仏成仏自然なり」(『高僧和讃』善導讃)と詠われている通りです。

タグ:親鸞を読む
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