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筏のたとえ [親鸞の手紙を読む(その51)]

(10)筏のたとえ

 さらに思い出すことがあります。釈迦の「筏のたとえ」です。
 「ある人が旅の途中で大洪水の河に出会った。どうしてもこちらの岸は危険であぶないが、あちらの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。あちらの岸に渡りたいが、舟も橋もない。そこで彼は考えた。わたしは草・木・枝・葉をあつめて筏を作り、それによってかの岸へ渡ろうと。そして彼は材料を集めて筏を作り、安全にかの岸へ渡った。そのとき彼は思った。『わたしはこの筏に乗って河を渡り得て、かの安全な岸に着くことができた。この筏は実に有益なものであった。さあ、わたしはこの筏を頭にのせ、あるいは肩にかついで、この先旅をつづけよう』と。修行僧らよ、この人の考えを汝らはどう思うか―左様この人の考えはまちがっているであろう。しからば彼はどうしたらよいであろうか。『たしかにこの筏は有益であった。しかし、この筏の役割は終わった。この筏は岸辺において、旅をつづけよう』と。修行僧らよ、わたしは汝らが執着をはなれるようにと、この筏のたとえを説いた。このたとえを知った汝らは、法をも捨てなければならない。いわんや非法をや」(『マッジマ・ニカーヤ』中村元訳)。
 引用が長くなりましたが、釈迦はここで驚くべきことを言っています。
 釈迦の遺言として「自燈明、法燈明」が有名です。「みずからを洲(燈明と訳されることもありますが、よりどころということです)とし、みずからをたよりとして、他のものをたよりとせず、法を洲とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとするな」(『大涅槃経』)ということで、そこでは「法をよりどころとせよ」と言っているのですが、このたとえでは「法をも捨てなければならない」と言う。これはどう理解すればいいのでしょう。法(ダルマ)はさまざまな意味でつかわれることばですが、いまの場合、一方では真理そのものを意味し、他方では真理を語ることば(教え)を意味していると考えることができます。ぼくらは真理としての法をよりどころとするしかありませんが、真理を語ることばとしての法は、それによって真理に気づいてしまえばもう必要ありません。河を渡り終えたら、筏は岸辺において、旅をつづければいいのです。

                (第4回 完)

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