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無常ということ [親鸞の手紙を読む(その53)]

(2)無常ということ

 文頭に「去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらん」とあるのが目に飛び込んできますが、これはいわゆる正嘉の大飢饉のことです。正嘉2年(1258年)から数年つづいた全国的大飢饉で、冷夏や台風により悲惨な状況がもたらされたことは日蓮の『立正安国論』(これはこの手紙と同じく文応元年に書かれています)の冒頭に生々しく記されています。「旅客きたりて嘆きていわく、近年より近日に至るまで、天変、地夭、飢饉、疫癘あまねく天下にみちて、広く地上にはびこる。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招く輩すでに大半に超え、これを悲しまざるの族あえて一人もなし」と。
 このような惨状を前にして、親鸞はまず「生死無常のことはり、くはしく如来の説きをかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ」と言います。ここで親鸞はめずらしく「生死無常のことはり」ということばをつかっています。この「無常」は言うまでもなく釈迦の教えの根幹の一つですが(仏法の三法印として、諸法無我、涅槃寂静とともに上げられます)、とりわけ日本仏教の底流にあってその通奏低音となってきたものと言えます。仏教が日本に根付いたのはこの「無常」の教えが日本人の心情にしっくりくるものがあったからではないでしょうか。
 心情としての「無常」は『源氏物語』をはじめとする多くの文学作品にその影を落としていますが、なかでももっともよく知られているのが『方丈記』冒頭の一文でしょう。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」。あるいは『平家物語』のこれまた冒頭の一文、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす」。これらにあらわれている「無常」は「世のなかのはかなさ」であり、それに対する詠嘆です、「あゝ、すべては何とはかなく過ぎ去っていくことよ」と。
 さて親鸞がここで「生死無常のことはり」と言っているのは、このような「はかなさ」の詠嘆でしょうか。

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