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臨終の善悪を申さず [親鸞の手紙を読む(その54)]

(3)臨終の善悪を申さず

 浄土教は一般的にこのような意味の「無常」と相性がいいと言えるでしょう。無常の世である穢土を厭離して、とこしなえの国としての浄土を欣求するのが浄土教の基本スタンスですから(因みに「厭離穢土」と「欣求浄土」は源信が『往生要集』の第1章と第2章に与えた章名です)。しかし親鸞が「生死無常のことはり」と言うとき、そのような「はかなさ」という意味の「無常」をむしろきっぱり拒否しているのではないでしょうか。この世がはかないのは当たり前であって、そのことを「おどろきおぼしめすべからず候ふ」と言うのです。
 無常を詠嘆する心情は、来生の極楽浄土に向かっており、もはや今生の娑婆世界からは離れています。その際、何よりも大事なのが臨終の正念であり(正念場ということばはここから生まれています)、めでたく弥陀の来迎にあずかることができるかどうかが関心の的です。ところが親鸞はピシッと言います、「まづ善信が身には、臨終の善悪を申さず」と。わたし親鸞としましては、臨終がどのようなありさまであるかはどうでもよろしい、と言うのです。
 親鸞は何か大事なことを言おうとするとき、自分の名を出します、「まづ善信が身には」と。『歎異抄』のなかでも、第2章に「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて」とありますし、第5章に「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」、そして第6章には「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」とあります。大きな主語のもとに自分の身を隠さず(「人間は云々」とか、「衆生は云々」とかというように)、己自身の身をさらしてものを言う、「わたし親鸞は」と。ここに親鸞の魅力があります。
 臨終の善し悪しを言う人の眼は来生に向かいますが、親鸞が無常というとき、無常の世の「いま、ここ」をどう生きるかに関心が向かっています。ですから「臨終の善悪を申さず」です。

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