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もう往生が定まっているから [親鸞の手紙を読む(その55)]

(4)もう往生が定まっているから

 親鸞の手紙の多くは、関東の門弟からのさまざまな問いかけに応えるものであると思われます。文頭に「御ふみくはしくうけたまはり候ひぬ」とか「たづねおほせられ候ふ念仏の不審のこと」とあったり、あるいは門弟からの手紙をそのまま上げ、それへの親鸞の返書がつづくという形式のものも『末燈鈔』に収められています。この手紙も、おそらく乗信房から「このところの飢饉騒ぎで、悲惨な死にざまでこの世を去っていく人たちが多いのですが、臨終のありようを気にする必要はないのでしょうか」といった趣旨の問いかけがなされたのではないでしょうか。
 それに対して親鸞が「まづ善信が身には、臨終の善悪をば申さず」とはっきり答えているのだと思います。
 なぜそんなふうに言えるかといえば、「信心決定のひとは、疑なければ、正定聚に住することにて候ふ」です。もう信心がさだまっているということは、仏となる身である正定聚のくらいにあるということですから、いまさら何を心配することがあるでしょうか、というのです。臨終に正念を保てないのではないかと不安を覚えるというのは、自分がほんとうに正定聚であるかどうか覚束ないということに他なりません。臨終に正念を保つことによって往生できるのではありません、もうすでに往生がさだまっているから臨終を安らかに迎えることができるのです。
 往生がさだまっているとは、往生がもう始まり、すでに往生の旅のなかにあるということですから、臨終のときに顔は苦悶に歪んでいたとしても、こころは穏やかに違いありません。「さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ」です。学問もあり、悟りすましているような人が、その実、臨終のことを気にして、とりみだして正念をうしなうのではないかと心配しているものですが、一文不通であっても本願にこころがさだまっている人は臨終の善し悪しなどはまったく気にしません。なぜなら「如来の御はからひにて往生する」のであり、もうすでにその如来の船に乗っているのですから。

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