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愚者になりて往生す [親鸞の手紙を読む(その57)]

(6)愚者になりて往生す

 文面からおしはかってみますに、どんな人々でしょうか、「臨終の善悪」についてあれこれ言ったり、また経釈を学問しないようなものは往生できないと説いたりする人たちがいたようで、親鸞は乗信房に対して、そのような人たちに「すかされさせたまはで、御信心たぢろかせたま」うことのないよう諭していると思われます。そのために親鸞は法然のことば、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」を出し、また法然が「ものもおぼえぬあさましき人々」と、それとは対照的に「文沙汰して、さかさかしきひと」とがやってきたのを見て、前者を「往生必定すべし」、後者を「往生はいかゞあらんずらん」と漏らしたというおもしろいエピソードを紹介しています。
 さてここであらためて考えてみたいのは、どうして「浄土宗の人は愚者になりて往生す」なのかということです。
 「愚者になりて」というのは、「たとえどれほどものをよく知っていたとしても、己は愚者であると自覚して」という意味でしょう。実際、法然は「智慧第一の法然房」と称された人で、当時並ぶもののいないほどの智者であったのですが、そんな法然が自らを愚者と自覚してはじめて往生できると言うのです。それはいったいどうしてなのか。思い起こされるのは「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」です。これも法然のことばで、親鸞はそれを師から受け継いだと思われますが、「いはんや悪人をや」と「愚者になりて」は通底しています。前者は「悪人であると自覚して」で、後者は「愚者であると自覚して」であり、いずれも己の悪と愚に気づいてはじめて往生できるということです。
 まず、悪と愚は実はひとつであるということ、ここから考えていきましょう。普通は、善いことをしたり悪いことをすることと、ものごとを知っていたり知らないということは別のカテゴリーに属すると考えられます。善いことをする人がものを知らなかったり、悪いことをする人がものをよく知っていたり、というのはごくありふれたことです。しかし仏教では悪をなすことと愚かであることはひとつです。

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