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気づいてはじめて「ある」 [親鸞の手紙を読む(その59)]

(8)気づいてはじめて「ある」

 これまでを整理しておきますと、「愚者になりて往生す」とはどういうことかを考えようとして、「愚者になる」とは「己の愚を自覚する」ことであり、それは「己の悪を自覚する」こととひとつであると言いました。貪と瞋と痴は我執の気づきとしてひとつであるということです。そして、釈迦が「我執が消滅する(滅諦)」というのは、われらが我執を滅しなければならないなどということではなく、われらのうちに我執があると気づくことであり、それが取りも直さず我執が消滅することだと言うのです。
 しかし我執に気づくことが、それが消滅することだとはどういうことでしょう。それを考えるために、我執は気づきにおいてしか存在しないということを確認しておきましょう。「われ」に囚われているということは、それに気づいてはじめて姿を現すのであり、気づかなければどこにもないということです。いえ、どこにも「ない」とも言えません。ないと言えるのは、すでにそれに気づいているということです。「ある」とか「ない」とか言えるのは、すでにそれに気づいているからです。
 ぼくはこのごろ耳が遠くなり、人の話がよく聞こえなくなりました。声はしているのです、ただ何を言っているのかよく分からない。ところが、外の小鳥のさえずりがまったく聞こえないことがあります。妻から「ほら、いい声でさえずっているよ」と言われて、よくよく耳を澄ましてみると、かろうじて聞こえる。こんなふうに小鳥の声がまったく聞こえないときは、それは「ある」のでないのはもちろん、「ない」こともありません。妻に指摘され、その声に気づいてはじめて、それまで聞こえて「ない」ことが判明するのです。それまでは「ある」ことも「ない」こともありません。
 我執も同じで、それに気づいてはじめて「ある」と言えるのであり、気づかないと「ある」ことも「ない」こともありません。そして、ここが摩訶不思議なところですが、それが「ある」と気づいたとき、それはもう我執ではなくなっているのです。

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