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「ある」と気づいたとき、もう「ない」 [親鸞の手紙を読む(その60)]

(9)「ある」と気づいたとき、もう「ない」

 何かに囚われるということを考えてみましょう。戦前の日本人の多くは「日本は神国であり、戦争で他国に敗れることはない」という思いに囚われていました。一種のマインドコントロールでそのように思い込まされていたのです。そのとき、これは囚われである、ある種のマインドコントロールであるなどとは思いもしません、真実そのものであると確信していたのです。ところが敗戦の事実を突きつけられ、「あゝ、これまでとんでもない思い込みのなかにあったのだ」とはじめて気づきます。そう気づいたとき、マインドコントロールがその姿を現したのです。
 ところが、「日本は神国である」という思いはマインドコントロールであると気づいたとき、すでにそのマインドコントロールは解けています。マインドコントロールであると気づいていなかった間、マインドコントロールにかかっていて、そう気づいた途端にマインドコントロールは姿を消すのです。ここには何とも不思議な消息があります。もう一度いいますと、マインドコントロールは、それに気づいてはじめてその姿を現す(したがってそれまでは影も形もない)のに、これはマインドコントロールであると気づいた途端に、それはもうマインドコントロールでなくなるのです。
 夢の中にあるとき、これは夢だなどと思いもしません、それがただひとつのリアルな世界です。夢から覚めて「あゝ、夢だった」と気づき、はじめて夢が姿を現しますが、でもそのときにはもう夢は存在しません、そこには現実があるのみです。「われ」に囚われている(我執の中にある)ときも同じです。そのとき、これは我執だなどと夢にも思いません。それがただひとつのリアルな世界です。ところがあるときふとこれは我執であると気づいて、はじめて我執が姿を現し、にもかかわらず、あら不思議、その途端にもう我執ではなくなっているのです。
 我執はそれに気づいていないあいだ存在し、それに気づいた途端に存在しなくなるということです。

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