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気づくとは [親鸞の手紙を読む(その61)]

(10)気づくとは

 さて、「愚者になりて往生す」です。「愚者になる」とは「己の愚を自覚する」ことですが、「己の愚を自覚する」とは「己の内なる我執に気づく」ことであり、それは取りも直さず「我執から解放される」されることです。そして「我執から解放される」ことこそ釈迦の言う滅諦であり、それは苦がもはや苦でなくなることで、それを浄土教では往生するというのです。これが「愚者になりて往生す」の意味ですが、「己の愚を自覚する」こと、「己の内なる我執に気づく」ことは、そうしようとしてできることではないことを確認しておきたいと思います。
 どんなことであれ、何かに「気づく」ことは、みずからなそうとして「なす」ことではなく、おのずから「なる」ことです。
 何かに気づくとは、もうすでにそこにあるにもかかわらず、どういうわけか意識がそこに向かっていなかったのが、あるときふと意識が向かうということです。これまで意識がそこに向かわなかったのは、何らかのバリアがあってそこに向かわないようブロックされていたからです。そのバリアが思いがけず外れて意識がそこに向かい「あゝ、こんなところにあったのか、これまでまったく気づかなかった」となります。ですから、みずからそうしようと思って気づけるものではありません。そうしようと思うには、うすうすであっても、そこにあることを意識していなければなりませんが、意識は完全にブロックされているのですから。
 意識して気づくのではありません、気づいてはじめて意識するのです。我執をみずから滅することはできず、ただそれに気づくだけと言いましたが(7)、気づくのもみずからできることではありません。あるときふと「あゝ、我執のなかにあったのだ」と気づかされるのです。そして、あら不思議、気づくことでもう我執から抜け出ているのです。これが「愚者になりて往生す」ということです。

                (第5回 完)

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