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覚信房という人 [親鸞の手紙を読む(その63)]

(2)覚信房という人

 この手紙は覚信房に宛てられていますが、覚信房とは下野高田の人で、手紙の末尾に親鸞が「いのち候はゞかならずかならずのぼらせ給ふべく候」と追伸していることからも二人の間柄が偲ばれます。
 この手紙には別筆(おそらくは受け取った覚信房の手)で「建長八歳丙辰(ひのえたつ)五月二十八日親鸞聖人御返事」とあり、親鸞八十四歳のときに書かれたことが分かりますが、覚信房のその後の消息については『末燈鈔』第14通の中で親鸞の傍につかえていた蓮位が報告しています。それによりますと、この手紙から二年後のこと、覚信房が同朋とともに国を発って親鸞にお目にかかろうと京に向かうのですが、その途中で病気になり、同朋の人たちは帰った方がいいとすすめるにもかかわらず、「死ぬのであれば帰ったとしても死ぬし、留まったとしても死ぬ。どうせなら聖人の傍で死にたい」と話したというのです。
 そして覚信房は京についてまもなく亡くなるのですが、その臨終の様子がこんどは覚如の『口伝鈔』に残されています。「呼吸のいきあらくしてすでにたえなむとする」のに、ひまなく念仏している様子を見て親鸞がその所存を尋ねたのに対して「いきのかよはむほどは往生の大益をえたる仏恩を報謝せずむばあるべからずと存ずるについて、かくのごとく報謝のために称名つかまつるものなり」と答えたとあります。それを聞いた親鸞は「御感のあまり随喜の御落涙千行万行なり」と記してあります。多少誇張のきらいはありますが、その場の情景が目に浮ぶようです。
 さて冒頭の二行は追伸で、余白部分に書き足したものと思われますが、そこに出てくる専信房とは、覚信房と同じく下野高田の人で真仏房の弟子とされ、のちに遠江に移り教化につとめたと言われます。「京ちかくなられて候こそ、たのもしうおぼえ候へ」とあるのはそのことでしょう。そして「御こゝろざしのぜに三百文、たしかにたしかにかしこまりてたまはりて候」とあるのに興味を惹かれます。京の親鸞の生活はこのような「御こゝろざしのぜに」で成り立っていたことでしょう。なお、三百文とありますが、当時一千文(一貫文)で米を一石(百升、180リットル)買えたそうです。

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