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信の一念と行の一念 [親鸞の手紙を読む(その64)]

(3)信の一念と行の一念

 覚信房が建長八年四月七日付けで書いた手紙を親鸞が五月二十六日に受けとったことが分かりますが、その間一か月半以上あることに京と関東の距離の隔たりと当時の時間の流れの悠長さを感じます。
 さて覚信房が親鸞に問い合わせたのは「信の一念」と「行の一念」の関係です。一念とは非常に短い時間をさし、信の一念とは信心のさだまる「時剋の極促」(「信巻」)であり、行の一念とは「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」(『歎異抄』第1章)、あるいは「ひとこゑをもとなへ」るときですが、親鸞は、この二つは二つにして一つであると言います。「信をはなれたる行もなし。行の一念をはなれたる信の一念もなし」というのは、信心のさだまるときが、取りも直さず、念仏を「ひとこゑをもとなへ」るときであるということです。どうしてそんなことが言えるのか、信心と念仏とはどう関係するのか、あらためて考えてみたいと思います。
 普通に考えれば、まず本願を信じることがあり、その上で名号を称えるという順序となるように思われます。
 本願(第18願)に「心をいたし信楽してわがくにに生れんとおもひて、乃至十念せん。もし生れざれば、正覚をとらじ」とあり、その本願が成就してすでに十劫を経ていると聞かせてもらい、それを信じる、これが本願を信じるということです。そしてその上で、本願にある通りに、浄土に「生れんとおもひて、乃至十念」する、これが名号を称えることです。としますと、信心と念仏は二つであり、一つとは言えないのではないでしょうか。信心のさだまる「時剋の極促」と、名号を「ひとこゑをも」称えるときは、たとえその間がきわめて短いとしても、やはり別ではないでしょうか。
 親鸞はそうではないと言う。本願を信じることは、取りも直さず、名号を称えることであり、その間に隙間はないと言うのです。これを了解するために、まずは「信の一念」に立ち返りましょう。

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