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本願を信じるということ [親鸞の手紙を読む(その65)]

(4)本願を信じるということ

 普通に信じると言うときは、一方に信じる対象があり、そして他方に信じる自分がいます。信の客体と主体。この両者ははっきり分かれており、主体は客体をいじくりまわして、これが信にあたいするものかどうかをじっくり吟味します。それをいいかげんにして安易に信用しますと、たちまち「振り込め詐欺」の餌食になってしまうでしょう。これが普通の信ですが、本願を信じるというのは様子が大きく異なります。こちらにいる自分が向こうにある本願を子細に吟味し、その上で信用するというのではありません。では「信の一念」とはどういう事態をいうのか。
 本願成就文がその事態を明らかにしてくれます、「聞其名号、信心歓喜(その名号をききて信心歓喜せん)」と。
 まず名号が聞こえるのです(聞其名号)。ここにすべての鍵があると言っていい。先ほど、本願を聞かせてもらい、それを信じると言いましたが(3)、その「本願を聞かせてもらう」というのと、いまの「その名号をききて」とはまったく異なります。「本願を聞かせてもらう」というときは、自分と向かい合って本願とは何かを説く人(善知識)がいるか、あるいは本願について説く経典があります。で、その説くところを聞いたり、そこに書いてあることがらを読んだりして、それを納得し信じるのです。真宗でよく「本願名号のいわれを聞く」と言われるのはこれです。
 しかし「その名号をききて」はそれとはまったく違う。
 「わたし」より先に名号があるのです。まず「わたし」があって、名号を聞こうとして聞くのではなく、まず名号があって、思いもかけず聞こえてくるのです。その後で「わたし」が名号に気づく。そして名号が聞こえてくることが、そのまま信じることです。名号が聞こえて、それを信じるのではありません。名号が聞こえてきたことが、取りも直さずそれを信じていることです。「信心歓喜」ということばがそれを何よりもはっきりと教えてくれます。名号が聞こえることは喜びであるということです。何とも言えずいい曲が聞こえてきますと、ぼくらのもこころは喜びに満ち溢れます。同じように、名号が聞こえて、ぼくらのこころは喜びに満たされる、これが「信の一念」です。

タグ:親鸞を読む
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