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行の一念 [親鸞の手紙を読む(その66)]

(5)行の一念

 では「行の一念」とは何か。これまた本願成就文が教えてくれます、「信心歓喜、乃至一念(信心歓喜せんことないし一念せん―親鸞の読み)」と。第18願には「至心信楽、欲生我国、乃至十念(心をいたし信楽して、わがくにに生まれんとおもふて、ないし十念せん)」とあり、そこでは乃至十念、成就文では乃至一念と食い違っていますが、いずれも名号を称えることには違いないでしょう。『歎異抄』のことばで言えば「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」であり、これが「行の一念」です。名号が聞こえて、こころに喜びが満ち満ち(これが信心歓喜です)、それはもうこころの中にとどまることができずに外に溢れだす。これが乃至一念です。
 おそらくここで専門家筋からクレームがくるだろうと思います、成就文の乃至一念は「信の一念」であり「行の一念」ではないと。
 煩わしい議論になりますが(こういうのを訓詁学と言うのでしょう)、『教行信証』で親鸞がどう言っているかを確認しておきましょう。「信巻」に「それ真実信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念といふは、これ信楽開発の時剋の極促をあらはし、広大難思の慶心をあらはす」とあり、それを裏づけるものとして本願成就文が上げられています。それをもとに真宗の教学では、成就文の乃至一念は「信の一念」であるとされるのです。一方、「行の一念」はと言いますと、今度は「行巻」に「おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり云々」とあり、その裏づけとして取り上げられるのが『無量寿経』の末尾、いわゆる弥勒付属文の「かの仏の名号をきくことをえて、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさにしるべし、このひとは大利をうとす」という一文です。そこからこの弥勒付属文の乃至一念は「行の一念」とされるのです。
 かくして真宗教学では本願成就文の乃至一念は「信の一念」であって「行の一念」ではないとされます。なるほどそのように読めないこともありませんが、でも『教行信証』を素直に読めば、その解釈には無理があると言わざるをえません。

タグ:親鸞を読む
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