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「信心プラス念仏イコール往生」ではない [親鸞の手紙を読む(その71)]

(10)「信心プラス念仏イコール往生」ではない

 「信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり」と親鸞が言うのは、「信心と念仏はひとつである」ということで、もし「ひとつ」となっていなければ、それはもはや真の信心でもなく真の念仏でもないということです。それに対して、「ただ念仏(専修念仏)」の教えに難くせをつけるひとは、「信心と念仏はふたつそろっていなければならない」のに、念仏だけで信心が欠けていると言っているのです。まず信心があり、その上で念仏とならなければならないのに、ただ念仏ばかりでは往生できないと。
 信心プラス念仏イコール往生と言っているのです。
 「信心と念仏はひとつである」と「信心と念仏はふたつそろっていなければならない」、同じようにみえるかもしれませんが、まったく違います。前者では信心も念仏も「弥陀の御ちかひ」であるのに対して、後者では信心も念仏も「行者のはからひ」です。前者では信心も念仏も「弥陀の御ちかひ」として「ひとつ」ですが、後者では「行者のはからひ」としての念仏だけでは足りず、それとは別にさらに「行者のはからひ」としての信心が加わってはじめて往生をえることができるということです。もうひとつ言えば、前者においては信心と念仏が因となって往生という果がえられるということではありません。信心と念仏が「弥陀の御ちかひ」として「ひとつ」であるように、往生もまた「弥陀の御ちかひ」として「ひとつ」なのです。
 親鸞が「信巻」で「真実の信心は、かならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」と言っているのも同じことです。真実の信心と真実の念仏はひとつですから、真実の信心があればかならず名号があり、もし名号をともなわないいなら、それは真実の信心ではないということです。そして逆に真実の念仏があればかならず信心があり、もし信心をともなわないなら、それは真実の念仏ではなく、まがいものと言わなければなりません。

                (第6回 完)

タグ:親鸞を読む
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