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第20通第1段本文 [親鸞の手紙を読む(その72)]

          第7回 くすりあり、毒をこのめと

(1)第20通第1段本文

 『末燈鈔』第20通を読みます。かなり長い手紙ですので、4段に分けて読んでいきます。まずは第1段。

 かたがたよりの御こころざしのものども、数のままにたしかにたまはり候ふ。明教房(みょうきょうぼう)ののぼられて候ふこと、ありがたきことに候ふ。かたがたの御こころざし、申しつくしがたく候ふ。明法御房(みょうほうのおんぼう)の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。鹿嶋・行方(なめかた)・奥郡(おうぐん)、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ。またひらつかの入道殿の御往生のことをきき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。めでたさ申しつくすべくも候はず。おのおのみな往生は一定とおぼしめすべし。
 さりながらも、往生をねがはせたまふひとびとの御中にも、御こころえぬことも候ひき。いまもさこそ候はめとおぼえ候ふ。京にもこころえずして、やうやうにまどひあうて候ふめり。くにぐににもおほくきこえ候ふ。法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生などとおもひあひたるひとびとも、この世には、みなやうやうに法文をいひかへて、身もまどひ、ひとをもまどはして、わづらひあうて候ふめり。
 聖教のをしへをもみずしらぬ、おのおののやうにおはしますひとびとは、往生にさはりなしとばかりいふをききて、あしざまに御こころえあること、おほく候ひき。いまもさこそ候ふらめとおぼえ候ふ。浄土の教もしらぬ信見房などが申すことによりて、ひがざまにいよいよなりあはせたまひ候ふらんをきき候ふこそ、あさましく候へ。

 (現代語訳) あなた方からのお志のものを、確かにまちがいなく頂きました。明教房が上京してくれましたことは、有難いことです。あなた方のお志、申しようもなく嬉しく思います。明法房が往生されましたことは、驚くことではありませんが、返す返す嬉しく思います。鹿嶋・行方・奥郡などの方々で往生を願っておいでのみなさんのお慶びでありましょう。またひらつかの入道殿が往生されたとお聞きしまして、返す返す申しようもなく嬉しく思います。みなさんの往生もまちがいないことです。
 しかしながら、往生を願っておいでになる方々の中にも心得違いをしている人がいらっしゃいましたし、今もそうだろうと思います。京でも心得違いをして様々に惑いあっておられるようです。いなかでも多くおられると聞きます。法然上人のお弟子の中で、自分はひとかどの学者だと思っておられる人々も、今はみな様々に教えを言い換えて、自分も惑い、人も惑わして、悩みあっておられるようです。
 浄土の経典の教えをみずしらないあなた方のような人たちは、どんなことも往生に障りがないということだけを聞いて、誤って理解されていることが多々ありました。今もそうだろうと思います。浄土の教えを知らない信見房などが言うことによって、いよいよおかしなふうになってしまっているとお聞きするさえ浅ましいことです。

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