SSブログ
親鸞の手紙を読む(その74) ブログトップ

往生にさはりなし [親鸞の手紙を読む(その74)]

(3)往生にさはりなし

 さて手紙は明法房やひらつかの入道の往生という話から本題に入り、「往生をねがはせたまふひとびと」のあいだにも「御こころえぬこと(心得違いのこと)」があるといわれます。そしてそれは、むかしもいまも、そして京でもいなかでも「おほくきこえさふらふ」と言うのですが、いったいどういう心得違いか。「往生にさはりなしとばかりいふをききて、あしざまに御こころえある」ということです。
 どんなに悪いことをしても往生にさわることはないから、遠慮なく悪いことをしていいという考えです。この考えは「本願ぼこり」とか「造悪無碍」とよばれますが、親鸞はこれが本願の教えにいかに反するものであるかを諄々と説いていくのです。第2段以下にその批判が展開されていきますが、それを読む前に「本願と悪」の関係について、その基本をおさえておきましょう。
 まずは『歎異抄』第1章から。「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」。どんな悪人も信心さえあればたすけてもらえる、なぜなら、そんな悪人のために本願はあるのだから、というこの一文で「本願と悪」の関係は尽くされていますが、さらに第3章で駄目押しされます、「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と。「悪人さえ」救われるのではなく、「悪人こそ」救われると言うのです。
 正信偈からもひとつ出しておきましょう、「一生悪を造れども、弘誓にまうあひぬれば、安養界にいたりて、妙果を証せしむ(一生造悪値弘誓、至安養界証妙果)」。どんなに悪をなそうとも、本願に遇うことができさえすれば往生できるというこのことばに一点の曇りもありません。どんな悪も本願の障りとならないのです。としますとそれは「造悪無碍」ということではないのでしょうか。どうして「造悪無碍」が本願の教えに反するのかという疑問がふくらんできます。親鸞の言うところを聞いていきましょう。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その74) ブログトップ