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毒と薬 [親鸞の手紙を読む(その76)]

(5)毒と薬

 ここで巧みなたとえが用いられています。悪(無明あるいは貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩)を酒あるいは毒に、そして本願を薬にたとえているのです。これまでは無明という酒にいやというほど酔っぱらってきたが、本願というすばらしい薬に出遇い、ようやく無明の酔いが醒めてきた、と。あるいは、これまで貪欲・瞋恚・愚痴という毒ばかりを喰らってきたが、思いがけず本願という良薬に遇うことができて、やっとその毒が抜けてきた、と。本願というすばらしい薬は、無明の酒に酔っているものや、貪欲・瞋恚・愚痴の毒を好んで喰らうもののために用意されているのだということです。
 ここから言えることは、これまでどれほど無明の酒に酔っぱらい、どれほど貪欲・瞋恚・愚痴の毒を好んで喰らってきても、本願という妙薬に遇いさえすれば、酔いが醒め、毒が抜けてしまうから心配する必要はないということです。どんな極悪人も本願に遇うことができさえすればたすけてもらえるから心配いらないとは何とありがたいことでしょう。ところが、本願に遇うことができて「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒もすこしづつ好まずして、阿弥陀仏のくすりをつねに好みめす身」になってきたというのに、「なほ酔ひもさめやらぬに、かさねて酔ひをすすめ、毒も消えやらぬに、なほ毒をすすめられ」るというのは何ということか、と親鸞は諭します。
 そしてこのことばがきます、「くすりあり、毒をこのめと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ」と。
 この巧みなたとえでもう説き尽くされたような感がありますが、さてしかし「造悪無碍」はそんなに生やさしいものではありません。一旦は説き伏されたように見えながら、なお首をもたげてきます。そしてこう言い放つでしょう、「そんなすばらしい薬があるからこそ、安心して毒を喰らうのだ」と。これまではこんなに毒ばかり喰らっていたのでは身体によくないのではないかという心配があったが、そんないい薬があるのだったら、もう何も心配いらない、思う存分毒を喰らえばいいと。さて、この言い分をどう考えればいいのでしょう。

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