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薬あり、毒を好め [親鸞の手紙を読む(その77)]

(6)薬あり、毒を好め

 「薬あり、毒を好め」などということは「あるべくも候はず」と諭したとしても、それで何が悪いと開き直られたらどうするかということです。それに親鸞ならどう答えるか。
 結論を先に言いますと、「薬あり、毒を好め」で何が悪いと開き直る人は、毒をほんとうに身に沁みて毒であるとは思っていないということです。だから薬も、その有難さをほんとうに身に沁みては感じていません。これは毒だそうだが、そしてそうかもしれないが、まあ大したことはあるまいと高をくくっています。それに、たとえ毒であったとしても、いい薬があるそうだから、心配ならそれを飲めばいいことだと思っています。たとえ毒であったとしてもかまわないと思うほど、それに執着しているということです。それがやめられないということです。
 あらためて貪欲・瞋恚・愚痴の三毒を考えてみましょう。たとえば瞋恚。車を運転させると、その人の本性が現れると言いますが、普段は虫も殺さないような顔をしていても、ひとたびハンドルを握ると、人が変わったように怒りっぽくなったりします。何を隠そう、ぼく自身がそうで、運転しながら他の車の動きにいちいち目くじらをたてています。狭い道をすれ違うときに、対向車の横柄な動きに無性に腹を立てたり、横から無理な割り込みをされたりすると、頭から湯気を立てて怒ったり、と。助手席の妻から、ひとそれぞれなんだから、怒ってもしょうがないよ、と窘められるのですが、この性分はなかなか直りません。
 さてこうした怒りをどうとらえるか。これは毒であり悪であると見るか、それとも、すぐ腹を立てるのは人間としてほめられたものではないが、まあしかし毒とか悪とか言うほどのことではないと見るか。釈迦は一事が万事みな煩悩であるとし、煩悩にあらゆる苦しみのもとがあると考えました。さて、自分の思うようにならないことに怒りを覚えるのは人間としてごく普通のことであり、それを毒とか悪と考える必要はないのか、それとも、それこそ悪の根源であると考えるべきなのか。

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