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第3段本文 [親鸞の手紙を読む(その80)]

(9)第3段本文

 仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとふるしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。
 はじめて仏のちかひをききはじむるひとびとの、わが身のわろく、こころのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩悩具足したる身なれば、わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふぞとは申し候へ。かくききてのち、仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには、まことにこの身をもいとひ、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは、もとこそ、こころのままにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ、世をいとふしるしにても候はめ。また往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこるとこそみえて候へば、さりともまことのこころおこらせたまひなんには、いかがむかしの御こころのままにては候ふべき。

 (現代語訳) 仏の御名を聞き念仏を称えるようになってかなり経った人たちは、この世の悪を厭い、この身の悪も厭い捨てようというしるしもあるものと思います。
 はじめて仏の誓いを聞いた人たちは、わが身が悪く心も悪いことを思い知って、この身のようではどうして往生できようかと思うものですから、われらは煩悩具足の身ですから、わが心の善し悪しにかかわらず、迎えていただけると申しているのです。このように聞き、仏を信じようと思う心が深くなりますと、本当にこの身を厭い、生死の世界を流転していることを悲しんで、深く誓いを信じ、阿弥陀仏の御名を好んで称えるようになるのですから、もとは心の赴くままに悪いことを思い、悪い振る舞いなどもしていましても、今はそのような心を捨てようと思われてこそ、世を厭うしるしというものです。また往生かなうという信心は、釈迦・弥陀の御すすめによって起こると説かれていますから、まことの心が起こりました以上は、どうしたって昔の心のままでいるはずはありません。

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