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世をいとふしるし [親鸞の手紙を読む(その81)]

(10)世をいとふしるし

 ここで親鸞は「仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびと」と「はじめて仏のちかひをききはじむるひとびと」を対比しています。
 後者は本願の教えを聞きはじめて日もあさく、まだ本願に遇えていない人々で(本願の教えを聞くことと本願に遇うことは別です)、そのような人は「わが身のわろくこころのわろき」ことを教えられ、「この身のやうにてはなんぞ往生せんずる」という不安なこころをいだいていますから、本願は「わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふ」ことが強調されるのだというのです。わが身がどんなに悪くても、そのような罪悪深重なものをたすけてくださる本願だから、何も心配することはないと教えられるのです。「悪をもおそるべからず。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」(『歎異抄』第1章)というように。
 しかし前者はもうすでに本願に遇い、「ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をもこのみまふしなんどするひと」ですから、「わが身のわろくこころのわろき」ことをふかく慙愧しています。そうしますと「この世のあしきことをいとふるしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも」おのずからあらわれてくるに違いありません。そして「もともこころのままにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころすてんとおぼしめ」すことでしょう。本願に遇うことができますと、おのずと「世をいとふしるし」があらわれでるものだということです。
 ここで「世をいとふしるし」と言われるのは、普通に「世をいとふ」というときとは違うニュアンスでつかわれていることに注意が必要です。普通には、世をすてて山奥でひっそり暮らす世捨て人のイメージで受け取られますが、親鸞が「世をいとふ」と言うときは、そんな風流な生き方ではなく、「この身のあしきことをばいとひすてんと」することを意味します。「世のあしきことをいとふ」とは、何よりも「この身のあしきことをばいとひすてんと」することです。

タグ:親鸞を読む
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