SSブログ
親鸞の手紙を読む(その83) ブログトップ

つつしんでとほざかれ [親鸞の手紙を読む(その83)]

(12)つつしんでとほざかれ

 これまでのところで「煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべし」(第2段)とする造悪無碍の考えを分かりやすいたとえをもちいて丁寧に批判してきた親鸞は、最後に、「かしま・なめかた・南の庄」の念仏者たちの間にあるときく「あしきさまなること」を具体的に指摘します。それは「師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんど」することですが、親鸞はそれを「謗法のひとなり、五逆のひとなり」として、そのような人から「つつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」と諭しています。
 悪から「つつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」という姿勢は、悪に「なれむつぶべからず」ということであるのはもちろんですが、ひいては「悪と争わない」ということでもあります。これは親鸞の首尾一貫した姿勢で、後に取り上げる手紙で明らかになりますように、念仏を妨げようとするさまざまな勢力に対して親鸞がとった姿勢も「争わず」というものでした。それはそうした勢力に「なれむつんで」ごきげんを取るということでは毛頭なく、「つつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」ということです。
 これは釈迦がとったスタンスでもあります。『スッタニパータ』にこうあります、「ある人々が『真理である、真理である』と言うところのその(見解)をば、他の人々が『虚偽である、虚偽である』と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。…真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない」と。さてしかし、真理が一つであるとすれば、その真理を知った人は、虚偽の世界にいる人たちと争うべきではないのでしょうか。争ってそれが虚偽であることを知らしめるべきではないのでしょうか。
 悪についても同様で、悪の世界にいる人たちと争って、それが悪であることを知らしめるべきではないのか。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その83) ブログトップ