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争わず [親鸞の手紙を読む(その84)]

(13)争わず

 どうして虚偽や悪から「つつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」と言われ、虚偽や悪と争おうとしないのでしょうか。ここで問題となっている虚偽や悪は、それをそうと気づいてはじめて姿をあらわす体のものであるからです。それが虚偽であるとも悪であるとも気づかずに虚偽や悪の中にいる人と争いようがありません。それに対して、客観的に虚偽であり、客観的に悪であることについては、それが虚偽であり、それが悪であることを論争のなかで明らかにしなければなりません。客観的な正しさは論争においてはじめて決着がつきます。しかし気づきというのは、すでに気づいているか、まだ気づいていないかのどちらかであり、その間に論争はおこりようがありません。
 繰り返しを厭わずあらためて述べておきますと、いま問題にしている宗教的な真理は、キルケゴールの言う主体的真理(「わたしがそれによって生き、それによって死ぬことができる真理」)であり、それはわれらがゲットするものではなく、われらはその真理にゲットされるのです。ゲットされてはじめて姿をあらわす真理ですから、ゲットされていない人にとって、それは存在することがないのはもちろん、存在しないことすらありません(存在しないことは、それにゲットされてから「これまで存在しなかった」というかたちでじはじめて明らかになります)。このようにゲットされていない人は何の問題意識もありませんから、それについて争おうにも争いようがありません。
 これはしかし宗教的・主体的な真理についての話で、こちらからゲットしなければならない客観的な真理については、その白黒を積極的に明らかにしなければなりません。虚偽や悪があるならば、それから「つつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」などというのはとんでもないことであり、それが虚偽であり、悪であることを主張し、互いの見解をぶつけ合う中で正しい結論を見いだす努力をしなければなりません。そこにおいては争うことが是非とも必要です。

                (第7回 完)

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