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世のいのりをこころにいれて [親鸞の手紙を読む(その88)]

(4)世のいのりをこころにいれて

 この段の最後に「それにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころをいれて、申しあはせたまふべしとぞおぼえ候ふ」とあり、それが次の第2段へと展開されていきますが、念仏者たちはみずから望んだことではないかたち(他からの誹謗中傷)で社会や政治と交わることになるわけです。「世のいのりにこころをいれて」とは、念仏は己の安穏だけでなく世の安穏をいのることだ、という趣旨でしょうが、ここに念仏と社会や政治との接点が姿をみせています。
 先回取り上げました『末燈鈔』第20通は、念仏者たちの間に「造悪無碍」の言動がうまれ、「師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんど」するというかたちで現れていることを問題にしていました。親鸞はそんな人たちを「謗法のひとなり、五逆のひとなり」と厳しく批判するとともに、そのような人から「つつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」と教えていました。これは念仏者たち内部のことですが、この手紙で問題となるのは外部から念仏や念仏者を「そしり」、「かろしめ」、「あなづる」動きが起ってきたときにどう対応すべきかということです。
 それが第2段で展開されていきますが、それを読む前に、いま一度思い起こしておきたいのが「世をいとふしるし」ということばです。本願に遇うことができた人にはおのずから「世をいとふしるし」が現れてくるということでした。「世をいとふしるし」とは「この世のあしきことをいとふるしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるし」であり、俗世間を離れて世捨て人になることではありません。これまでは「こころのままにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんど」してきたが、その生き方を改めて、念仏する身にふさわしくなろうと思うことです。
 本願にたすけてもらうために「自力作善」するのではありません、もうすでに本願にたすけてもらったから、それにふさわしい身になろうとすることです。

タグ:親鸞を読む
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