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朝家の御ため国民のために [親鸞の手紙を読む(その90)]

(6)朝家の御ため国民のために

 親鸞は、本願に遇うことができ、念仏をもうす身になると、おのずから「世をいとふしるし」が現れると言いますが、それはどんなかたちをとるのでしょう。その答えの一つが「わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために、念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたふ候ふべし」でしょう。申す念仏は、もはや自分のためではなく、「朝家の御ため国民のため」となるということです。さあしかし、この一句にはある記憶がしみついています。戦前の真宗教団にまつわる忌まわしい記憶です。
 戦前の真宗教団(に限らず、ほとんどの宗教団体がそうですが)は政府の戦争政策に協力する姿勢を鮮明にしていましたが、それを正統化するために「真俗二諦」という教説を持ち出します。それは、仏法には真諦(第一義諦)、すなわち仏の悟りそのものと、俗諦、すなわち仏の悟りを機に応じて仮にあらわした世俗の教えの二つがあるという教説ですが、時の政府の戦争政策に協力するのは俗諦の一つのかたちであるとするのです。そしてさらにその根拠とするために、親鸞自身のことばとしてこの「朝家の御ため国民のために」が使われたのです。「わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために、念仏を申す」ことは、現今の日本においては戦争に協力するということだと。
 これはしかし泉下の親鸞にとって思いもかけないことではないでしょうか。あらためてこの手紙の言わんとするところをふりかえってみますと、まず、念仏に対する誹謗や中傷は世の常であるが、そういうことがなされるときは、「世に曲事のおこる」ものであると言われていました。そこで「念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころをいれて、申しあはせたまふべし」と言われ、さらにそれを敷衍するかたちで「わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために、念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたふ候ふべし」と述べられてのです。
 かくして、「朝家の御ため国民のために、念仏を申す」というのは、「世に曲事のおこり候ふ」ことのないようにと祈って、ということであるのは明らかです。

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