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世をいとふしるし [親鸞の手紙を読む(その91)]

(7)世をいとふしるし

 この文脈において「朝家の御ため国民のため」というのは、「自分一人のためではなく、みんなのため」という意味であり、決して天皇のためとか国家のためということではありません。親鸞はたとえ相手が天皇であろうと、言うべきことはきっちり言うという姿勢の持ち主であることは、先の「主上臣下、法にそむき義に違し、いかりをなしうらみをむすぶ」という言葉に明らかですし、また、親鸞がどんな人たちの立場に立っていたかをよく示すものとして『唯信鈔文意』の中の一文を上げることができます。
 親鸞は中国の慈愍和尚のことば「よく瓦礫をして変じてこがねとなさしむ」を注釈して、「れうし(猟師)、あき人(商人)、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば、…いし・かわら・つぶてなむどを、よくこがねとなさしめむがごとしとたとへたまへるなり」と述べています。こうしたことばから、彼は「いし・かわら・つぶて」と蔑まれる人たちを「われら」とよび、その側に身を置いていることが読み取れ、まちがっても天皇や国家の側に寄り添う人ではないことが分かります。
 本筋に戻りましょう。本願に遇うことができ、念仏を喜ぶ身となった人は、もう「わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために、念仏をまふ」されるのがよろしい、ということ、それが信心をえた人の「世をいとふしるし」であるということでした。親鸞はここで「往生を不定におぼしめさんひと」と「わが身の往生一定とおぼしめさんひと」を対比しています。そして前者については「まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏さふらふべし」とし、後者については「仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こゝろにいれてまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべし」と述べています。
 前回取り上げました『末燈鈔』第20通でも「はじめて仏のちかひをききはじむるひとびと」と「仏の御名をもきき、念仏をもまふして、ひさしくなりておはしまさんひとびと」が対比されていました。そして前者に対しては「どんな悪も往生の障りになりません」と言うが、後者はわが身のありようを深く慙愧し、おのずから「世をいとふしるし」があらわれるものだと述べていました。まだ本願に遇えていない人と、すでに本願に遇えたことを喜んでいる人を区別しているのです。

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