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御報恩のために [親鸞の手紙を読む(その92)]

(8)御報恩のために

 本願に遇えたときに何が起こるか。まずは深い慙愧の思いです。これまで「こころのままにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんど」をしてきたことを恥ずかしく思う。そして同時に「いまはさやうのこころすてむと」思う。本願にふさわしい身になろうと思う。これが「世をいとふしるし」です。念のために言っておきますが、そのように思ったからといって、「こころのままにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんど」をすることが止むわけではありません。本願に遇えたからといって、急に仏になれるわけではありません、依然として凡夫のままです。ただしかし、凡夫であるがままで同時にすでに「仏となる身(正定聚)」であることに気づかせてもらえたのです。
 そこから二つ目に深い感謝の思いが湧き出てきます。たすかりようのないこの身をたすけてもらえたことに対して何ともいえない喜びと報恩の思いが生まれてきます。それが「仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ」ということです。わが身の悪きことを慙愧するだけではなく、報恩の思いから「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と願う、これが「世をいとふしるし」です。
 この報恩ということについてひとこと言っておかねばなりません。浄土真宗では「仏恩報謝の念仏」ということが強調されます。これは多分に蓮如の「おふみ」に由来します。蓮如は「おふみ」のなかでもう枚挙にいとまのないほど「報恩の念仏」を言います。それは、往生一定のためにする念仏ではなく、往生一定を喜ぶ念仏という意味で言っていて、親鸞が「正信偈」で「ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」と詠っているのをまっすぐに受け継いでいます。ただ、「仏恩報尽のために念仏もうす」(第1帖、第1通)と繰り返しいわれますと、何かちょっと違うのではないかという思いが膨らんでくるのです。

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