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世のなか安穏なれ [親鸞の手紙を読む(その93)]

(9)世のなか安穏なれ

 たすかりようのないこの身がたすけてもらえたという喜びが、おのずから南無阿弥陀仏の声として漏れ出るのと、こんなわが身がたすけてもらえたのだから、報恩のために念仏しなければならないとなりますと、どことなく微妙に違うのを感じます。どうしてそんな微妙な違いにこだわるのかと言われるかもしれませんが、そうした細部にえてして大事なことが潜んでいるものです。まず気がつくのは、前者が「おのずから」念仏する(もうひとつ言えば、念仏「しないではいられない」)のに対して、後者は報恩のために念仏「しなければならない」というニュアンスだということです。
 そして「報恩のための念仏」は、それだけで完結してしまいがちですが、「おのずからの念仏」は、それにとどまることなく、さらなる奥行きをもつという違いがあります。すぐ前のところで、「こころのままにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんど」をしてきたことを恥ずかしく思う慙愧のこころは、おのずから「いまはさやうのこころすてむと」思うこころを伴うといいましたが、それと同じように、たすかりようのないわが身がたすけてもらえたという喜びから「御念仏こころにいれてまふ」すことは、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと」思うこころを引き連れています。念仏が自己完結することなく、社会に向かって開かれているのです。
 仏教は一般的に社会に対して消極的だとみなされます。とりわけ念仏の教えは「厭離穢土、欣求浄土」ということばに象徴されますように、往生浄土を喜ぶことに自閉して、穢土である社会に向かって積極的に働きかけようとしないと思われています。実際、『歎異抄』第4章を見ますと、「今生に、いかにいとをし、不便(ふびん)をおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらふべき」とあり、どうにも消極的という印象をぬぐうことはできません。
 しかし「始終なし」と言われるのは、あくまで自力作善のこころで「ものをあはれみ、かなしみ、はぐく」もうとすることについてであり、本願他力に遇うことができ、念仏を喜ぶことができるようになりますと、おのずから「世をいとふしるし」が現れざるをえません。そしてそれが「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」の願いとなって発露せざるをえないのではないでしょうか。

                (第8回 完)

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