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よろづの仏・菩薩をあだに申さん [親鸞の手紙を読む(その95)]

(2)よろづの仏・菩薩をあだに申さん

 この手紙は末尾に9月2日の日付けと「念仏人々御中(ねんぶつのひとびとおんなかへ)」という宛名があるだけですが、その内容から書かれた年代が推定できます。
 第1段だけでは分かりませんが、この手紙が書かれたのは、東国の念仏者たちにたいして「ところの領家・地頭・名主」たちが「念仏をとどめんと」画策していることをどう考えたらいいか、そしてそれにどう対応すべきかを「念仏人々御中」に教え諭すためです。すでに述べましたように、建長8年(1256年、親鸞84歳)の5月に善鸞が義絶されています。東国での念仏をめぐる混乱、そして「鎌倉にての御うたへ」の背後にわが子・善鸞がいることに気づいた親鸞はついに義絶という決断をするに至るのですが、親鸞にもことの真相はなかなか分からなかったようです。
 この手紙は、そのような時期に混乱のさなかにある東国の念仏者たちに書かれているのは間違いありません。そしてこの手紙につづく『親鸞聖人御消息集』の第10通は善鸞に宛てて書かれているのですが、その日付けが同じ9月2日で、内容的にこの第9通と共通していますから、同じ日に書かれたものと考えられます。そしてその年は建長7年だろうと思われます。と言いますのは、第10通の善鸞宛ての手紙が義絶以後に書かれることはありえませんし、また伝わってくる緊迫感からしまして、それより2年も3年も前ということも考えにくいからです。
 さて東国の念仏の人々の間に起こった混乱のひとつが、「よろづの仏・菩薩をかろしめまゐらせ、よろづの神祇・冥道をあなづりすてたてまつる」ことであったようです。ただひとすじに阿弥陀仏に帰命するということから、阿弥陀仏以外の諸仏・菩薩を軽んじ、またもろもろの天神地祇をおとしめるような言動が念仏の人々の間に広がり、それが周辺との摩擦を引き起こすことになったものと思われます。こうしたことはすでに法然の時代から見られ、法然は延暦寺からの非難に応えてつくった『七箇条起請文』の真っ先に「諸仏・菩薩をそしらないこと」を上げています。善導の「専修念仏」を受け継いだ法然は、「ただ念仏」という教えを広めたわけですが、この「ただ念仏」が阿弥陀仏以外の諸仏、天神地祇を否定することになるのを誡めているのです。

タグ:親鸞を読む
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