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弥陀と諸仏 [親鸞の手紙を読む(その96)]

(3)弥陀と諸仏

 宗教には一般に排他性がつきまといます。「わが教え」と「他の教え」とを厳しく対立させ、「わが教え」を称揚し、「他の教え」を誹謗する。かくしていつの時代においても、どこの地域においても宗教間・宗派間の争いが絶えないという何とも困った現象が生じるわけです。人々のこころに平和をもたらさねばならない宗教が争いのもとになるという皮肉。「わが教え」と「他の教え」とが違うのは当たり前ですが、だからと言って争わなければならないことはありません。その違いを認めつつ、互いに尊重しあえばいいのですが、えてして「わが教え」はよし、「他の教え」はわろしとなってしまう。
 たとえば蓮如。彼は一方で「諸法を誹謗すべからず」と繰り返し言いますが、しかし他方で「わが法」がいかに優れているかと比較をすることがあります。たとえば女人成仏に関連してこんなふうに言います、「わが身は女人なれば、つみふかき五障・三従(ごしょう・さんしょう)とてあさましき身にて、すでに十方の如来も、三世の諸仏にも、すてられたる女人なりけるを、かたじけなくも弥陀如来ひとり、かかる機をすくわんとちかいたまいて云々」(『おふみ』第1帖、第10通)と。女人は三世の諸仏から見捨てられているのに、弥陀如来だけは女人成仏を誓う勝れた仏であると称揚しているわけですが、これを裏返せば、他の諸仏をおとしめることになるのではないでしょうか。
 それに対して親鸞は「諸仏・菩薩の御すうめによりて、いままうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまゐらせ候ふ御恩」と言います。遇いがたくして、いま「弥陀の御ちかひ」に遇うことができたそのことが救いに他なりませんが、それも「諸仏・菩薩の御すすめ」があったればこそのことで、「弥陀の御ちかひ」があっても「諸仏・菩薩の御すすめ」がなければ、それはわれらのもとに届くことはありません。としますと、もう弥陀も諸仏も別ではないと言わなければなりません。

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