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念仏をとどめんと [親鸞の手紙を読む(その99)]

(6)念仏をとどめんと

 第1段で念仏の人々に対して「よろづの仏・菩薩をかろしめまゐらせ、よろづの神祇・冥道(みょうどう)をあなづりすてたてまつると申すこと、このことゆめゆめなきことなり」と諭した後、この第2段では一転して「そらごとを申し、ひがごとを、ことにふれて、念仏の人々に仰せられつけて、念仏をとどめんと」する人たちについて述べています。念仏の人々が仏・菩薩や神祇・冥道を軽んじることなどにかこつけて「念仏をとどめん」とする「ところの領家・地頭・名主」に目を転じているのです。
 親鸞は「ところの領家・地頭・名主」たちが「念仏をとどめん」とするのは「よくよくやうあるべきことなり」と言います。「やう(様)」とはこの場合「事情」といった意味でしょうから、地域の権力者たちが念仏を弾圧しようとするのはよくよくわけがあるのです、と言っているのです。親鸞はことの本質をしっかり見極めているということです。ではそのわけとは何か。なぜ時の権力は念仏を目の敵にするのか。ひとことで言えば、念仏は世の聖俗の秩序を乱すものと受け取られているということです。法然は専修念仏を独立した一宗として宣言し、すでに確立している八宗体制(南都六宗に天台・真言宗)にいわば殴り込みをかけたのです。
 承元の法難の引き金となった「興福寺奏状」がその理由の真っ先に上げたのが「朝廷の勅許もえずに、勝手に一宗を立てること」です。当時は俗の権力(朝廷と幕府)と聖の権力(南都北嶺)が一体となって世の秩序をつくっていたのですが、それに対して法然は真正面から異議申し立てをしたわけです。法然自身にどれだけの覚悟があったかは分かりませんが、権力側から見ればこれは明らかな秩序顛覆の企てと言わなければなりません。空前絶後の大弾圧(死罪4名、流罪7名)となったのはそのような背景があるのですが、身をもってそれを体験した親鸞には念仏に対する大小の弾圧の意味するところは手に取るように分かっていたのです。

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