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無眼人、無耳人 [親鸞の手紙を読む(その101)]

(8)無眼人、無耳人

 理不尽な迫害にじっと堪え忍ぶことすらできそうにないのに、迫害を加えてくる相手を哀れに思い、その人のために念仏するなんてことは常軌を逸していると感じます。そんなことがどうしてできるのか。
 親鸞は「無眼人」、「無耳人」ということばを持ち出します。これは道綽の『安楽集』に引用されている『目連所問経』のことばで、「無量壽仏国はゆきやすくとりやすくして、しかもひと修行して往生することあたはず。かへりて九十五種の邪道につかふ。われこのひとをときて、眼なきひとと名づく、耳なきひとと名づく」とあるのですが、こころの眼、こころの耳がなければ「みれどもみえず、きけどもきこえず」であり、弥陀の本願が届いていても、それに気づくことがありません。
 「ところの領家・地頭・名主」たちは、「みれどもみえず、きけどもきこえず」であるばかりに「そらごとを申し、ひがごとを、ことにふれて、念仏の人々に仰せられつけて、念仏をとどめん」とするのだと了解することができれば、彼らに対する怒りや憎しみは収まり、むしろ「あはれ」に思い、「ふびん」と感じることができるようになるということです。さてしかし「言うは易し、行うは難し」。その通りだと思いながらも、念仏を謗られ、とどめられると「コノヤロウ」と毒づいてしまう。
 親鸞もそれを否定することはないだろうと思います。『歎異抄』第9章の親鸞は煩悩具足の自分を正直にさらけ出しています。われらは煩悩からおさらばすることはできません。できることといえば、これは煩悩であり、そしてこの煩悩があらゆる苦悩のもとであることに気づくことだけです。「コノヤロウ」と怒るのは煩悩に他ならないと気づいたそのとき、不思議なるかな、怒りが和らぎます。そしてこころに落ち着きがもどるにつれて、害を加えてくる人は「あはれ」にも「みれどもみえず、きけどもきこえず」なのだと思うゆとりが生まれてくるのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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