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『親鸞聖人御消息集』第12通 [親鸞の手紙を読む(その103)]

           第10回 そのところの縁つきて

(1)『親鸞聖人御消息集』第12通

 第12通、真浄房宛ての手紙です。2段に分け、まず第1段。

 さては念仏のあひだのことによりて、ところせきやうにうけたまはり候ふ。かへすがへすこころぐるしく候ふ。詮ずるところ、そのところの縁ぞ尽きさせたまひ候ふらん。念仏をさへらるなんど申さんことに、ともかくもなげきおぼしめすべからず候ふ。念仏とどめんひとこそ、いかにもなり候はめ。申したまふひとは、なにかくるしく候ふべき。余のひとびとを縁として、念仏をひろめんと、はからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ。そのところに念仏のひろまり候はんことも、仏天の御はからひにて候ふべし。
 慈信坊がやうやうに申し候ふなるによりて、ひとびとも御こころどものやうやうにならせたまひ候ふよし、うけたまはり候ふ。かへすがへす不便(ふびん)のことに候ふ。ともかくも仏天の御はからひにまかせまゐらせさせたまふべし。そのところの縁尽きておはしまし候はば、いづれのところにてもうつらせたまひ候ふておはしますやうに御はからひ候ふべし。慈信坊が申し候ふことをたのみおぼしめして、これよりは余の人を強縁として念仏ひろめよと申すこと、ゆめゆめ申したること候はず。きはまれるひがごとにて候ふ。この世のならひにて、念仏をさまたげんことは、かねて仏の説きおかせたまひて候へば、おどろきおぼしめすべからず。やうやうに慈信坊が申すことを、これより申し候ふと御こころえ候ふ、ゆめゆめあるべからず候ふ。法門のやうも、あらぬさまに申しなして候ふなり。御耳にききいれらるべからず候ふ。きはまれるひがごとどものきこえ候ふ。あさましく候ふ。
 入信坊なんども不便におぼえ候ふ。鎌倉に長居して候ふらん、不便に候ふ。当時、それもわづらふべくてぞ、さても候ふらん。ちからおよばず候ふ。

 (現代語訳) さて念仏を巡る問題で大変な思いをされていると聞いております。本当にお気の毒なことです。所詮その土地での縁が尽きてしまったということでしょう。念仏を押し止められるなどということを何も嘆くことはありません。念仏を押し止める人は、どのようになられようとも、念仏する側は何も心配することはありません。他の人たちを頼りにして、念仏を広めようと考えるなどということは、ゆめゆめあってはなりません。その土地に念仏が広まるのも広まらないのも、仏のおはからいでありましょう。 
 慈信坊がさまざまに言うことで、人々のこころが惑わされているとお聞きしておりますが、何とも哀れなことです。ともかく仏のおはからいのままにまかせるべきです。その土地の縁が尽きてしまいましたら、どこか別の場所へ移ろうとお考えになってください。慈信坊がそう言っているようですが、私から他の人を頼りとして念仏を広めよなどと言ったことは絶対ありません。とんでもない誤りです。この世のならいとして念仏を妨げようとする人がいるのは、かねてから仏が説いて下さっていることですから、驚くことではありません。いろいろと慈信坊が言っていることを、わたしが言っているように思うなどということはくれぐれもありませんよう。念仏の教えにつきましても、とんでもない言い方をしているようです。聞き入れてはいけません。ひどく間違ったことを言っているようです。あさましいことです。
 入信坊も気の毒なことです。鎌倉に長く足止めになっているようです。哀れなことです。今はそうなるべくしてそうなっているのでしょう。どうにもできません。

タグ:親鸞を読む
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