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そのところの縁つきて [親鸞の手紙を読む(その105)]

(3)そのところの縁つきて

 その土地で念仏が妨げられ迫害されるというのは、「そのところの縁つきておはしまし候ふ」ということだから、「いづれのところにてもうつらせたま」うのがよろしいという驚くべき考えについて思いを廻らしたい。「そのところに念仏のひろまり候はんことも、仏天の御はからひにて候ふべし」ともあり、念仏が広まるのも、妨げられるのも、しょせん縁によるのだというのです。だから、念仏が妨げられたからと言って「ともかくもなげきおぼしめすべからず候ふ」というスタンスには深く考えさせられます。
 「何ごとも縁による」というこの考えのもとが仏教の縁起の思想であることは言うまでもありません。縁起の思想をあらためて確認しておきますと、ものごとは他のものごととの関係・繋がりのなかにあり、それだけを単独に取り出すことはできないということです。この思想は無我という仏教のもうひとつの基本思想と不可分で、ぼくらはともすると「わたし(アートマン)」が他のものとの関係・繋がりに先んじて、それ自体として存在すると思っていますが、そんなものはどこにもないということです。まずもって「わたし」があり、しかる後に他のものとの関係・繋がりがあるのではなく、まずもって縦横無尽の関係・繋がりがあり、しかる後にそうした関係・繋がりのひとつの結節点として「わたし」があるだけということ。
 まずもって「わたし」があり、しかる後にさまざまな関係・繋がりができてくるという常識的なものの見方に哲学的な装いを与えたのがデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」です。ありとあらゆる関係・繋がりを一つひとつ剥がしていくと、最後に「わたし」が残り、まとわりついている関係・繋がりがすべてあやしいとしても「わたし」だけは確実・堅固であるということです。したがって「“わたし”あってのものだね」で、他のもろもろの力に依存しなければ生きていけないのはもちろんであるとしても、他の力に依存しようとするのも「わたし」であり、「わたし」がそう思わなければ他の力もなきにひとしい。これがぼくらの常識的な自力の立場です。

タグ:親鸞を読む
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