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自力と他力(つづき) [親鸞の手紙を読む(その108)]

(6)自力と他力(つづき)

 自力と他力も同じ事情にあります。どこかに自力なるもの、他力なるものがあるのではなく、どちらも気づきにおいてはじめて姿をあらわします。すべては自力だと気づいたときに自力が顔をあらわし、すべてが他力だと気づいてはじめて他力が顔を出すのです。そしてこの二つの気づきは表裏一体で、すべては自力によると気づいたとき、同時にすべてが他力によりはからわれていると気づいています。闇の気づきがあるとき、かならず光の気づきがあるのと同じで、両者は矛盾するどころか、二つにしてひとつです。
 さて再び「そのところの縁つきた」から「いづれのところにてもうつらん」とはからうのと、「餘のひとびとを縁として、念仏をひろめんとはからふ」のとの違いです。どちらも自力によるはからいである点では同じですが、前者は「すべて縁による」こと、みな他力によるはからいであることに気づいているのに対して、後者はその気づきがありません。ただ自分がしようとしていることが妨げられたことに腹を立て、どうにかしてわが意を通さんとはからっているだけです。
 さてしかし、後者の「餘のひとびと」を頼ろうとするのは、他力に気づいてはいませんが、すべては自力だとは思っているのではないでしょうか。そうだとしますと、先ほど自力の気づきと他力の気づきはひとつであると言ったことと矛盾するように思われるかもしれません。ここでひとつ註が必要となります。日常の中でつかわれる自力と他力と、浄土の教えでいわれる自力・他力との間には意味にズレがあるということです。日常的な用語としての自力は、文字通り「自分の力で」ということで、それに対して他力は「他の力を借りて」ということです。この自力・他力は誰でもたやすく確認できます、これは自力だ、これは他力だ、と。
 一方、浄土の教えにおける自力・他力のもとには自利と利他があります。曇鸞が仏教語としての自利・利他を日常語としての自力・他力とリンクさせ、仏教で自利といわれたいたものを「自らのために自らの力を使うこと」という意味で自力とし、利他といわれていたものを「他(衆生)のためにはたらく力」という意味で他力と言いかえたのです。親鸞はそれを受けて自力を「わが身をたのみ、わがこころをたのむ」(『一念多念文意』)とし、他力については「他力といふは、如来の本願力なり」(「行巻」)としています。

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