SSブログ
親鸞の手紙を読む(その110) ブログトップ

第2段本文 [親鸞の手紙を読む(その110)]

(8)第2段本文

 真浄房あて第12通の後段です。

 奥郡のひとびとの、慈信坊にすかされて、信心みなうかれあうておはしまし候ふなること、かへすがへすかなしうおぼえ候ふ。これもひとびとをすかしまうしたるやうにきこえ候ふこと、かへすがへすあさましくおぼえ候ふ。それも日ごろ、ひとびとの信の定まらず候ひけることのあらはれてきこえ候ふ。かへすがへす不便に候ひけり。
 慈信坊が申すことによりて、ひとびとの日ごろの信のたぢろきあうておはしまし候ふも、詮ずるところは、ひとびとの信心のまことならぬことのあらはれて候ふ、よきことにて候ふ。それを、ひとびとは、これより申したるやうにおぼしめしあうて候ふこそ、あさましく候へ。
 日ごろやうやうの御ふみどもを、書きもちておはしましあうて候ふ甲斐もなくおぼえ候ふ。『唯信鈔』、やうやうの御ふみどもは、いまは詮なくなりて候ふとおぼえ候ふ。よくよく書きもたせたまひて候ふ法門は、みな詮なくなりて候ふなり。慈信坊にみなしたがひて、めでたき御ふみどもはすてさせたまひあうて候ふときこえ候ふこそ、詮なくあはれにおぼえ候へ。よくよく『唯信鈔』・『後世物語』なんどを御覧あるべく候ふ。年ごろ、信ありと仰せられあうて候ひけるひとびとは、みなそらごとにて候ひけりときこえ候ふ。あさましく候ふ、あさましく候ふ。なにごともなにごとも、またまた申し候ふべし。

 正月九日                               親鸞
真浄御坊

 (現代語訳) 奥郡の人々が慈信坊(善鸞)にだまされて、信心がフラフラしているようですが、何とも悲しいことです。わたしも人々をだましたようにうわさされていますことは、本当に嘆かわしいことです。それも、普段から人々の信心が定まっていないことのあらわれと思われ、何とも哀れに思います。
 慈信坊が言うことによって、人々の日頃の信心がたじろいだりしますのは、結局のところ、人々の信心がまことのものでなかったことがはっきりしたのですから、その意味ではよかったと言うべきです。それを人々が、わたしが申したように考えられておられるのは、嘆かわしいことです。
 日頃から様々な書物を書き写してお持ちになっておられると思いますが、その甲斐もないような気がします。『唯信鈔』や、さまざまな書物は、今や意味がなくなったのかと感じております。これまで書き写してお持ちになっている法文は、みな意味がなくなったようです。みんな慈信坊の言うことを真に受けて、優れた書物をうち捨てられておられるようですが、本当に悲しく思います。『唯信鈔』、『後世物語』などをよくよく御覧になってください。長い間、信心があると言われてきた人々も、みなそうではなかったということです。嘆かわしいことです。何事もまたの機会に申しましょう。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その110) ブログトップ